「 両親の病気と寄り添う現実 」ということ
前回は「レビュアー」の真似事のような記事を書いてみた。
思いのほか反響が大きく正直驚いた。
あんな「レビューというか感想」みたいな記事をたくさんの方々にお読み頂き、
なんのご参考にもならなかったとは思いますが、本当にありがとうございました。
さて今回はこのブログの主題に戻して「 生き方 」を考えてみたい。
私の両親もなかなかの大病を実装し、こうしている今も戦っている。一人で身動きの取れない父親をこれまた大病を患っている母親が診ている。
いわゆる「 老々介護 」だ。
それでも母は出来る限りのことは一人でやってくれている。
離れて暮らしている我々「 子 」はそれをフォローする。
これはこれで実はまあまあ大変な事である。
「 子 」は自身の生活があり、その合間を縫ってフォローをする。
同じような環境の人々は星の数ほどおられると思う。自分だけが大変なわけではない。
しかし両親はもっともっと大変な日々を過ごしていることは重々承知している。
私たちは誰も例外なく「 両親 」がいて存在し成り立っている。出生のあれこれはあろうが、この事は人類史上絶対に間違いのない真理だ。
そして両親は我々が「 何もできない 」(これこそ本当に文字通り何も出来ない)状況を嫌がらず、それどころか寧ろ「 喜んで 」一人の人間として育ててくれた。もうこれは誰が何を言おうとそうなのだ。若干のブレはあれどもほぼここへ集約される事は間違っていないはずだ。
考えをそこに至らせたときに、我々が考えないといけないことは
「 次は我々『 子 』が『 恩返し 』をする番だ 」という事である。
「 人は何も知らない状態で生まれ、何もわからなくなり去ってゆく 」のだ。
どうしても「他人の親はこれくらい自分でできている」と比べがちで苛立つこともあるのも事実だが、それを自分の出生時に置き換えてみると両親も「他の子は出来るのに」と何度も思われて育てられた事は間違いない。でも両親は投げ出す事無く育ててくれたであろう。(すべてとは言えないが。)
であればそれは今後「 恩返し 」という言葉で具現化し今後の両親の力になるべきである。
私もこのことに気づくまで少し時間がかかって苛立っていた時期もあった。(今考えると恥ずかしい限りだ)
誰かに「頼られている」という事は本来誇らしいことであるし「 人として 」の高付加価値である。これが社会で部下や同僚からの「 頼 り 」であるのと「 身内 」である場合との違いで少し感情が変わるのだ。しかしその「繋がり」を考えたとき、天秤にかけるまでもなく重いのは「 血 」なのである。
何もできなくなった「 血 」は我々「 血を受け継いだ者 」が受け継ぐことは知育と同じで「介護するのではなく育てる」のである。
今回も私の独りよがりをぶつけただけだが、同じような境遇の人がもし何か見えて何か糸口が掴めたら幸いかと思います。